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みんなの素朴な疑問や悩みに、当サイト管理人がズバッと答えちゃうぞ!現在のところ質問は幹部の子弟の方からのみ受け付けております
なお当項目の内容を転載したい方におかれましては、必ず「質問・回答項目の各1セット」を最低単位とし、その中での抜粋・改変を行わない(転載先にも出典および改変禁止の旨を明記する)よう強くお願い申し上げます。この制限は本項が極めてデリケートな内容を含んでおり、記述の意図が十分に伝わらない形での受容が危険であるためです。
素朴な悩み
大人はみんな嘘つきなのですか?
そうです。より正確に言うと、嘘が上手くならないと大人になれないのです。これから話すことは一切報道されていないので皆さんご存じないと思いますが、19歳の冬に試験があり、上手く嘘が付けるようになったかを問われます。大多数の人は合格できますが、時々マア、アレです。隣のみっちゃんは戻ってきませんでした。おやこんな時間に宅配とは珍し
スポーツマンシップって何ですか?
身体能力に秀でた者が、そうでない者への優位を保持する為に唱えた方便です。
「質問は幹部の子弟の方からのみ受け付けております」と冒頭にありますが、幹部って何ですか?
あなたが答えを知らないのであれば、それはあなたが幹部たる資格を有さないことを意味する。
真実は時として人を傷つけるのですか?
それは正しくありません。真実は「常に」人を傷つけます。もしもあなたが周囲から「立派な人格を持ち合わせた」「善良な人」だと思われたいならば、真実など口にすべきではありません。
どうすればロックスターになれますか?
君が信じる道を見失わないことだね。
どうすればポップスターになれますか?
人生、諦めも肝要だね。
「須通りキッズ」って何ですか?
ここまでのページを読んで「義憤」という名の感情を抱いた人を呼称する、一種のバズワードです。それが「諦観」であれば、あなたは「大人」なのでしょうし、「反発」であれば「青年」と呼ばれるべきでしょう。ちなみに当サイトは青少年の健全育成を応援していますぞ。
インターネットについて
インターネットは危険なところなの?
みなさんは、「インターネットは危険なところだから気をつけましょう」、といった注意を、保護者や学校の先生から受けていると思います。これは概ね正しいです。でも、たとえば野山ですとクマやハチが居りますし、街を歩いていても車にはねられる等は十分にありえます。ひょっとするとあなたのお父さんやお母さんだって、心の奥底ではあなたに愛想を尽かしているかもしれませんね。
そう、何も危険なのはネット空間に限った話じゃない。「何がどのように危険なのか」を正しく把握することが重要なのです。その概要はたとえばWikipediaの「ネット中毒」の項目を参照して頂ければ分かりますが、特に注意すべき点を個人的に1つ挙げるとしたら、不特定多数の他者と容易に繋がる可能性を考慮することです。人間はこのような行為に陶酔感を覚えます。ちなみに、いわゆる「炎上」が社会的に顕在化したのは00年代中ごろにブログやSNSが普及してからだったと思います。これに関連する質問として、下の項目もご覧ください。
最後に、インターネットは身の回りの空間とは異なった危険をもたらしますが、社会の新たな可能性を切り拓く希望の路でもあります。国土は有限です。地下資源は有限です。でも人間の創造性は無限です。もしこれからの日本にGoogleやFacebookが生まれるとしたら、今学校のパソコン室で教師の目を盗んでこのページを貪り読んでいるあなたや、その同級生の世代が立役者になると私は予感しています。
なぜ『須通り』はブログ形式にしないの?
最大の理由は、ブログが固定リンクの生成を元来不得手とする技術であるとともに、データベースの利用や外部リソースへの依存により、サイトのアーカイブを困難にすることです。管理者である私自身が何らかの理由でサイトの元データにアクセスできなくなった場合、もしくは閲覧者の誰かが非ネット接続環境でもサイトを参照したいとき、旧来のhtmlによるウェブサイトであればwget等の再帰収集ツールで全データをバックアップできます(当サイトはロボットによる巡回を制限していません)。
第2の理由は、市場に出回っているブログツールにより自動生成されるページが、(容量・javascriptの処理速度の両面で)無駄に重いことです。最新の通信・マシン環境ではこのことは大きな問題となりませんが、そうでない利用者も世の中には存在します。
また、ブログにおいては執筆やコメントといった行為へのハードルが低すぎるため、適切な推敲が行われないままに文章が一人歩きし、しばしば炎上を引き起こします。怖い怖い
なぜ調べ学習の答えをWikipediaから丸写ししてはいけないの?
これは非常に難しい質問です。もちろん著作権上の問題や、学習者が自ら一次資料に当たることの重要性など、指摘すべき点は多々あります。とはいうものの、図書館に行って(紙媒体の)百科事典や新聞記事を書き写す行為と、Wikipediaの記述を書き写す行為の間に、いかなる本質的差異があるのか。この点に向き合わずに本件の回答を済ませるならば、どうしても歯茎に物が挟まったような言い方にならざるを得ません。
こんなときは、問いそのものを疑って掛かりましょう。新しい問いは以下です。
「なぜ調べ学習の答えをWikipediaから丸写ししてはいけないの?」
削除された「なぜ」は、あなたの思考範囲を限定し、その行為の是非自体に考えが及ばないようにするため、悪い大人達(筆者含む)によって付け加えられた部分です。問題文に仕掛けられた「なぜ」を自覚的に発見し、自在に取り外して考えられるようになれば、あなたは悪い奴らの示す政策に唯々諾々と従うリスクから、より解放されるでしょう。
それはさておき、出版されている百科事典とWikipediaの違いは何でしょうか。この場に即した一つの回答は、後者が原則として誰でも記事を作成・編集できるという点です。この原則によりWikipediaは最新の情勢に対応でき、長い目で見れば記事の中立性を担保し易くなります。その反面、記事が読まれた特定の瞬間においては、不正確な記述や恣意的な情報操作が紛れ込んでいる危険性は高いのです。従って、レポートを書く際に情報源をWikipedia一本に絞る行為は、推奨できるものではありません。
その代わりに、記事内で引用文献として示されている本やウェブページ、関連分野の専門用語へ向けて貼られているリンクといった情報を活用して下さい。出自や時代の異なる複数の文献や、複数の情報媒体を参照することで、誤謬や情報操作の被害を蒙る危険性は格段に下がります。大企業の社長さんが毎朝、わざわざ時間を費やしてまで複数紙の新聞を読んでいるのには、それなりの意味があるのです。
京大農学部の学生です。パソコンを買ったのですが、研究室にあるLANケーブルを挿してもインターネットに接続できません。こんなパソコンなら二束三文で売り飛ばしたほうがマシでしょうか。
売るくらいなら私に下さい。
というのは半分冗談で、まずブラウザ(Internet Explorerなど)を立ち上げて、京大農学部のホームページ http://www.kais.kyoto-u.ac.jp/ へ接続してみましょう。KUINSそのものには繋がっている場合、京大各部局のサイトは開けるはずです。
これが開けない場合、LAN(研究室のネットワーク環境)が繋がっていない、あるいはPC自体に問題があるかもしれません。よくあるのは、LANケーブルが途中で外れているか、ネットワークハブの電源が入っていない事例です。研究室を掃除した後は、特に要注意です。
上記の京大内のページには繋がるが、大学外たとえばGoogleなどのページを開けないという場合は、十中八九ブラウザのプロキシ設定が済んでいないためです。Internet Explorerならば「ツール」→「インターネットオプション」を開いて、「接続」タブ内の一番下にあるボタン「LANの設定」をクリックして下さい。
「LANにプロキシ サーバーを使用する」にチェックを入れて、
「アドレス」に proxy.kuins.net
「ポート」に 8080
を入力、OKをクリックします。 他のブラウザを使っている場合でも、httpプロキシと書かれた設定項目を探して上記の値を入力します。
ここまでやっても繋がらない場合は、研究室のネットワーク管理担当者に尋ねてみましょう。大事なものを差し出すことになるかもしれませんが、人生とは喪失の連続であり、いつかまた笑って過ごせる日も来ます。
『須通り』はエログロナンセンスの巣窟なのですか?
このサイトのどのページにも、刑法に触れるようなわいせつ・残虐表現、特定の個人に対する誹謗中傷等が存在しないことはご覧の通りです。でも私はこのページでは徹頭徹尾、読者に対して「既存の社会常識を疑うことから始めよう」と勧めていますから、そうした意味では青少年を徒に死へと駆り立てているかもしれません。まあ今後の情勢変化によっては、この手のウェブサイトも自由に作れなくなるかもしれませんが。せめてソクラテスおじさん並には、痩せ我慢したいですね。
なぜ『須通り』はTwitterをやらないの?
上の「なぜ『須通り』はブログ形式にしないの?」と概ね同様の答えです。Twitterは大変面白いツールだと思いますが、投稿(ツイート)や返信(リプライ)といった行為へのハードルがブログ以上に低すぎて、ほとんど脊髄反射的に全世界へ向けて喧嘩を売ることができてしまい、炎上を引き起こすリスクがさらに高まります。今一つの大きな問題が、Twitterというサービスを提供している運営への不信です。運営会社の匙加減一つで仕様変更されたり、メッセージやアカウントを消されたりするリスクから本質的に逃れられません。実情はともかく World Wide Web は、あらゆる検閲から自由な空間たらねばなりませんから、情報インフラの大本をTwitter運営に押さえられるなどという状況に、この私が耐えられるはずがない。
Mastodonには興味があります。ただ実装として横断検索が弱いのと、インスタンス間の分断が進む方向にあり、全世界的な言論空間を形成するには至らなかったと認識していますので、自分からやることは多分ないです。方向性として私が求めているものに一番近いマイクロブログは twister だと思いますが、いまだ開発途上でありプログラミング未経験者が始められる段階に達していません。要約すると、傷付くことを恐れるスドウ君は、今日も一人ぼっちなのでした。
文化について
小説家になろう!
なりません。文章を書くのは好きですしフィクションを読むのも好きです(実は「なろう」系の異世界転生モノも結構読み込んでいます。『異世界はスマートフォンとともに』は一周回って文学を再構築したと思う)が、売れ線のフィクションを書ける自信がありません。二十代後半の数年間を、自作曲やMADムービーを投稿したりゲームを作ったり本ウェブサイトを公開したりといった行為に費やして来た挙句、自分の感性は世間一般の「面白い」から決定的にズレているようだ、という確信に至りました。それに価値がない、というわけではないのですが、商業作品として成立するほどの支持層を創作活動において獲得できなかったことに変わりはない。それでも未練がましく、今日もサイトに駄文を書き足しては肥大化した自尊心をガス抜きしています。最近は更新が滞っておりますが、本業が忙しい上に職場環境が毎年のように変化して精神的に消耗しており、せめて余暇くらいは受け身でダラダラ過ごしたいというのが言い訳の一つ、もう一つは論文(=ノンフィクション)の文章を書くことでそれなりに満足感が得られてしまうため、創作への渇望がこのところ低調で推移しているわけです。
ループものに名作なし、でしょうか。(2018年9月17日)
(この項目は『魔法少女まどか☆マギカ』TV版のネタバレを含みます)
小説やアニメ等の作品ではしばしばタイムマシンやタイムリープが存在し、これによって主人公視点で時間がループするという展開が見られます。このような展開を持つ作品を「ループもの」と呼ぶならば、当然そこには名作も駄作も含まれるわけですが、個人的には「冒頭は面白い→話の途中でつまらなくなる」作品に当たる率が、時間に可逆性の無い作品に比べて高い気がします。
具体的にどの作品がつまらないと云うと角が立つのですが、おそらく最大の原因は、ストーリーの緊張を維持しにくいためでしょう。作中で主人公が下すあらゆる決断は本来 the point of no return であり、それが否応なしに自分や世界の運命さえも決めてしまうからこそ、読者の心を掴みストーリーへ没入させます。しかし作品がループものだと判明した瞬間に、読者は「どうせ戻れるんでしょ」と醒めた目で見るようになってしまう。
勿論その程度の難点は大概のライターも把握しているわけで、だからこそ多くのループものは「ループが存在するからこそ生まれる苦悩や困難」「ループ構造を打破するための奮闘」を物語の主軸に据えることで対処しています。『STEINS;GATE』や『魔法少女まどか☆マギカ』がその代表格です。問題は、どんなに取り繕ってもこのアプローチの本質は「手段の目的化」、すなわちフィクションのギミックとして作者が勝手に持ち出したループ構造を、勝手に打破してオチをつけているに他ならず、物語としての take-home message は別の部分で稼ぐ必要があります。たとえば『まどマギ』において暁美ほむらの時間遡行は、彼女の個人的な絶望に留まらず、ソウルジェムを媒介とした魔法少女という搾取システムからの、解放を成し遂げるための武器として活用されてもいる。だからこそ我々の心を打つのです。
別の有力なアプローチが、時間遡行は可能だが決して完全な現状回復はできないという形にして、主人公に絶えず犠牲と決断を強いるやり方です。この手法を全面的に用いて成功した作品に『Re:ゼロから始める異世界生活』が挙げられます。いずれにせよ、時間を作者の都合で弄れるという自由度の高さに伴う代償として、ストーリーの中弛みを防ぐための精緻なプロットが要求されるわけです。上記諸作品は舞台設定、キャラクター、展開の全てにおいて隙のない名作揃いですが、まあ多くの作者はそこまでの執筆能力も執念も持ち合わせていない。だからこそ安易なループ設定に堕してしまう作品が後を絶たないのでしょう。
生活・社会に関する悩み
最近のテレビはなぜつまらないのでしょうか。
誰かが見せたがっているものを見させられる装置だからです。ちなみにインターネットはあなたが見たいものだけを目に入れる装置であり、現実とは見たくないものを見せ付けられる装置であることはご承知の通りです。
なぜ自殺は悪なのですか?
あなたの命があなた自身の所有物ではないためです。それは家父長や教会や党の所有物であり、あなたの判断で破棄することは、図書館で借りた本を返さずにゴミ箱へポイするのに等しい行為なのです。
性善説と性悪説のどちらが正しい?
現実の社会システムでは、規模に応じて両方の性質を使い分けている、というのが私の回答です。最近何となく考えていることですが、社会システムの大多数は出現当初には性善説に基づいて運用されます。その正しい運用法について、創設期からのメンバー間では価値観が共有されており、また各メンバーによる誤用・悪用が直ちに全体を停止・破壊してしまう程度に、システム自体が小規模だからです。広く普及していく過程でシステムの規模は必然的に大きくなりますので、そのうちの数人が好からぬ事を仕出かしても、直ちには崩壊しなくなります。逆に言えば臨界規模に達すると、システム内でチーターが生き残るようになる。
仮にシステムがこの臨界規模を超えて拡大路線を続けるならば、「~すべからず」といったルールを定める、すなわち性悪説にシフトする必要が生じるでしょう。現在我々が道徳や法律と呼んでいるものは、この過程でみんなが絞った知恵の残滓です。
一方でルールの制定は確実に、システムの柔軟性を失わせます。その過程では、より小規模かつ共通の目的・価値観を有するサブグループが現れ、分派しつつもメタシステムとしては存続・拡大してゆく場合もあります(最近の例ではBitcoin型決済システム)。系全体が極めて強固なルールで統一されて存続するか、緩やかなメタシステムとして存続するかの違いを左右している内的・外的要因については、改めて考えてみたいところです。
まあ何が言いたいかというと、世の中が息苦しくなってきたと感じた時は、その体制の中で不満をぶつけるより、外側で今まさに生まれつつあるシステムに目を向ける方がずっと建設的だよと。旧体制を倒す努力は流血を生みますが、外に受け皿を作ってしまえば、もはや戦う必要すら無いのです。
教育・勉強法について
どうすれば文章が上手くなりますか?
私にとって身近である、理系の大学生・大学院生を例に説明します。実を申しますと、京大の理・農のように入試で国語が必要とされる学部においても、学部生の作文力はピンキリです。ところが、学部時代に(傍目に)あまり文章が上手くないなぁと思っていた学生でも、大学院に進学すると急激に文章力が伸び始めます。例えば卒研時点でのセミナーのレジュメと、同じ学生がM2の秋頃に書いたレジュメを読み比べれば、これは一目瞭然です。
どのような経験が、彼らの文章力を押し上げたのか。一つは執筆の絶対量が増えること。もう一つは指導教員や研究室の仲間による添削(ダメ出し)の存在でしょう。そして最後に、私が最も強調したい点は、卒論なり修論なりといった非常に狭い専門分野の(つまりほぼ同じ)関連内容を、ゼミや学会発表の度に2~3年間繰り返して書き続ける点です。
これは小説の練習に例えるならば、同じテーマを取り扱った長編(学位論文)、中篇(セミナーの中間報告や学会ポスター)、短編(アブストラクト)、プロット(研究計画書)を代わる代わる執筆し、その全てをプロの小説家に添削してもらっては再度書き直しているようなもの。そりゃ上手くなるわな。
もちろん同様の練習を、全くの個人が行うことは困難かもしれません。何せ先生役が必要です。ただし今あらためて私が独りぼっちで文章の練習を始めるとしたら、きっと採用するであろう手法が2つあります。
- 一つは、未来の自分を添削者にすることです。人は文章を書き上げた瞬間から、その内容を忘れ始めます。従って、以前に自分が書いた文章を1ヵ月後なり1年後なりに読み返してみれば、第三者に近い視点からダメ出しすることができます。
- もう一つは、先に自分が書いた文章の、要約版を作る行為です。研究者はこれを日常的に行います。論文の原稿や学会発表のアブストラクトを作成する際、最初は必要な情報と論理構成を細大漏らさず書き出しますが、通常このままでは制限字数をオーバーします。そこから重複や冗長な言い回しを削り、場合によってはロジックそのものを単純化し、何とか字数ぎりぎりに収めるのです。
時には、リジェクトされた論文を別の学術雑誌へ投稿する際に、アブストラクトの制限字数が 250 words → 200 words に減るといった事態もあります。ちなみに論文の究極の要約版とは、その論文の「タイトル」です。
研究について
生態学会のポスター賞がなかなか獲れません。
もしあなたが査読付き雑誌に論文を通した実績があるにも関わらず、何度出してもポスター賞に引っ掛からないとしたら、おそらく研究の対象生物、テーマないし手法がキャッチーではない為です。今からでも遅くは無いので鳥獣をやりましょう。私も4回応募して全滅でした。べっ別に悔しくないんだからね
研究を取るべきでしょうか、それとも人生を取るべきでしょうか。
その悩みを口にするということは、あなたには未だどちらかを選ぶだけの余裕が残されているのです。
なお私は論文を書いている時、この論文が将来に渡ってどの程度の経済価値を創出するのだろうかと考え込んでしまうことがあります。研究の立案、資料収集、実験と解析に要した時間と費用、論文を執筆し共著者の目を通すまでの労働時間、雑誌の編集者や査読者の貢献、その他諸々を強引に賃金換算すると、生態学分野の原著論文を1本世に出すための有形無形のコストは最低ラインでも三~四百万円、一千万円に達する場合もざらにあるはずです。果たしてそれだけの価値に見合うのだろうか。
まあしかし、私はこうも思うのです。論文出版後の数年間における直接的な経済効果だけで研究の価値を計るのは、明らかな誤謬だろうなぁと。まず、後続の研究者にヒントを与えたり、数十年も経ってから再評価されたり、時には別分野の研究結果と組み合わせることでようやく応用の目処が付いたりします。また、しょぼくても論文を出し続け、当該研究分野を存続させること自体が意味を持つ場合もあります。
ただ、その手の貢献は経済学で言うところの「正の外部性」、あるいは「陰徳」ですので、研究者自身のポストや競争的資金獲得には反映されにくいのが難点です。これに関しては国家が研究資金を「ばら撒く」ことによって救済が見込めるのですが、昨今の予算配分方針はむしろ逆行しています。もちろん今更、ばら撒き政策への回帰を声高に唱えても世論が味方してくれないのは明白です。なので基礎研究の長期的な社会貢献を、何とかして可視化する方策を考えなきゃならんと常々思っているところです。
ちなみに私自身は、生態学(とりわけ自身の研究テーマである、小型植食者および捕食者の群集安定化機構)が真に役に立つのは今から数十年後、(大きな声では言えませんが)現代文明が存亡の淵に立たされたその時だと考えています。というのも現状、地球の人口は明らかに増えすぎており、この傾向が将来も続くとしたら耕地と水が足りなくなるわけです。従って植物工場等の閉鎖系における食糧生産体制の確立は急務となり、その為には薬剤に頼らない害虫個体群の抑制が要求されることでしょう。逆に人口が減少したり、文明の水準を維持できなくなったりした場合には、これまた低労力かつ持続的な病害虫管理が、人類存続の鍵を握ると予想されます。私自身や研究室の同僚が日夜進めている怪しげな研究は、やがて来る黄昏の時代に人々の日々の糧を支配する支えるためのものなのです。
(2014.05.25追記)
上で「選択と集中」のヤバさについてそれとなく触れましたが、1年経った今この国の科学界は、まさに私が危惧した状況に陥っています。短期的な成果だけで研究を評価したならば、不確かなデータを針小棒大に宣伝する、あるいは捏造してまで成果を欲しがる輩が増えるのは当然です。たとえ積極的に不正に手を染めずとも、「まともな経済感覚を持ち合わせた」研究者であるほど、短期的なリターンが見込めない基礎分野や、人目に触れにくい形での社会貢献からは手を引くことでしょう。
これから数十年間のスパンで考えたとき日本は、人口が減って経済規模が縮小してゆく中で、科学・技術大国としての地位を維持するという、ジレンマに満ちた国家戦略を採らざるを得ないわけです。そうしたジレンマに対する最もapparentな解法の一つが「選択と集中」であり、おそらく問題解決能力においては私よりも長けているであろう、官僚たちの多くがこの解に飛びついたことは、何ら不思議ではありません。
まあ現実には雑草を取り除いたつもりが、数十年後に立派な大木に成長するかもしれない研究の萌芽まで、一緒くたに引き抜いてしまったんですけどね。
とはいえ、私自身は必ずしも日本の学術研究の将来を悲観ばかりしているわけではありません。たとえばポスドク問題は酸鼻を極めていますが、裏を返せば自らの経済的成功よりも、科学的真実と向き合うことを選んだ若者がそれだけ存在するということです。あるいは研究費に恵まれなくても、安価な民生用機材やフリーソフトウェアを駆使して独創的な論文を出し続けている研究者は、私の周囲にも数多くいます。定着するかどうかは分かりませんが、クラウドファンディングによる研究費獲得の試みが日本でも始まったことは、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。知的好奇心が科学者を駆動し、変人奇人や鼻つまみ者が食いっぱぐれない程度には「ヌルい」現場組織が維持される限りにおいて、思いもよらぬ新知見が意外な場所から今後も世に出続けると、私は確信しています。
どうして研究不正が後を絶たないのですか?(2014年12月30日)
2014年は、日本社会において研究不正の問題が、かつて無いほどに大衆の目を惹き付けた年でした。個々の事例への言及は、私自身が有期雇用(ポスドク)の立場で敵を作りたくないという事情もあって差し控えますが、要するに「(ズルをして得られる旨味)が、(発覚確率×発覚によるペナルティ)を上回るようになった」から、不正が後を絶たないのです。
科学者が自身の実験データを基にして論文を発表するとき、本質的に重要な点は「データ自体が偽物(捏造)でないか」よりも「論文に書かれている手順や法則に従って実験すれば、著者以外の実験者でも同じ結果を得られる」ことです。これを科学的再現性と呼びます。たとえ証拠そのものを偽造して論文を出版したとしても、その結果を第三者が再現できなければ、数年後なり数十年後には必ず不正がバレるか、後続の研究者からシカトされるようになります。いわゆる「天網恢恢疎にして漏らさず」という奴です。
なので本来は不正のメリットよりデメリットの方が大きいはずなのですが、研究者間の生存競争のスピードが極端に速くなれば話は別です。すなわち競争的資金や雇用の獲得が直近の成果のみに基づいて決まる業界では、馬脚を現す前にポストをゲットしてしまった者が生き残り、正直者は消えうせるでしょう。本ページを上から順番に読んできた須通りキッズのみんなには、こうした不正にモチベーションを与えた張本人こそが、科学・技術政策における「選択と集中」であることは一目瞭然ですね。
さすがにデータ本体の捏造にまで走る輩は、モラルのねじが一本飛んでいるわけですが、明らかな不正とは言えずとも、研究成果の応用可能性について話を盛るケースは着実に増えています。「ただちに役に立たない研究」を許容しない納税者、存在感を示したい研究機関、特ダネを欲するマスメディア、そして生き残るために少しでも名前を売りたい研究者の各利害が一致し、怪しげなプレスリリースが一流大学のウェブサイトのトップを連日飾るようになりました。
まあ厳しいことを書いてきましたが、データに対して誠実である限り、科学者がスタンドプレイに走るのも決して悪いことばかりではないでしょう。私自身、紫綬褒章の一つも呉れると言うなら三回廻ってワンくらいはやります。誰か賞くれないかなー(チラ見)。